山住神社について

 

 「山住神社」は、山住山(1107m)山頂に鎮座し、山犬()を祀る神社として有名。

 

山住神社からスーパー林道天竜線を南下すると秋葉神社へと通じています。

 

元亀3年(1572年)、武田勢に追われていた徳川家康が山住に逃げ込んだとき、山犬が一斉に吠えて武田勢を退散させたとされ、三方ケ原の戦いの後、家康より二振りの刀剣が奉納されています。

 

当時、狼は山間部の狭い耕地を猪や鹿から守る益獣で農作物の守り神として、奥三河一帯で山住神社の山犬信仰が浸透していました。また境内には、樹齢1260年余の杉の大木かあり御神木となっています。神社の起こりは、和銅2年(709年)伊予の国(愛媛県)大山祇神社より移し奉ったと伝えられています。

 

徳川家康が祈願し、難を逃れたという山住神社

 

春野町気田の町から気田川の流れをたどり、五里ほど北上すると門桁(かどげた・水窪町)

という集落があり、集落のすぐ西側の稜線上に山犬で知られる山住神社がある。江戸時代には山住権現社とか熊野権現社とも呼ばれた。

山住神社は、標高1107、6メートルの山住山に鎮座し、遠州地方にある社寺のうちでは最も高い場所にある。現在は水窪町向市場から山住を越えて門桁まで林道が開通したため交通は至便になったが、以前は向市場からの急勾配の山道を歩かねばならなかった。

山住神社の海抜は1107メートル、門桁の集落は507メートル、門桁から山住神社までの距離は約3キロほどで、海抜が1000メートルもの差があるのだから、この坂道がいかに急勾配であったかが理解出来る。

その他、秋葉山から竜頭山を経て山住山に至るスーパー林道もつくられたため、秋葉山側からも車で参詣出切るになった。

山住神社は老杉の林を背景にした銅瓦葺き、総檜造りで、延喜式に周智郡三座のうち苅原河内神社(はきはらこうちじんじゃ)といっているもので、山住神社と改めたのは明治5(1872)年2月である。苅原河内神社は和銅2(709)年、43代元明天皇の時代に伊予国(愛媛県)越知郡の大山積(おおやまずみ)神社から大山祇神(おおやまずみのかみ)を勧請したことに始まるとあり、養老元(717)年に勅願所となり、貞観年中(859~877)に2度にわたって勅使を迎えている。苅原というのは、現在同社のある地名である。

保元年間(1156~1159)に守屋兵部大輔が社殿を再建し、勝坂山(周智郡春野町)

にあった熊野三社も移したから、この神社には当初勝坂山にあったとされ、後に門桁に移され、さらに現在の地に移されたということであるが、勝山にあった頃は熊野三社とは別社であったかどうか分からない。

社殿の建築は堂々たるもので、信州、三河、遠州にかけて広く信者を抱え、参詣する信者のためにお籠り堂まで設けてあった。

社殿の前は深い谷、そのはるかな谷底に見えるのが門桁集落である。

 「遠江国風土記伝」に

  苅原河内神社、苅原は地名なり、奥山郷地頭方村の山住社なり、朱府の高37石5斗、  

  境内山林は方300町、斎神の御名は大山住神なり、并に熊野大神を斎くなり、社記に曰ふ、養老元年元正天皇に勅願山とし、貞観年中清和天皇に勅使殿あり、保元年中諸

  者再興す、而して守屋兵部大輔、熊野大神を本社に遷し奉る。永正1067日奥山大膳亮造営す、棟札あり、古老曰ふ。旧社は勝坂にあり、後門桁村に移る、又苅原に遷る。苅原は今の社地名なり。

とあり、別項の「山住社」の項には、「戸田村(門桁村)をもって神戸となす」とある。

 

門桁から現在の場所にいつの時代に社が遷座されたのかは判らないが、かなり古い時代に

違いない。

応永29(1422)年、同社は山住三社大権現と呼ばれたようで、この時、奥山貞茂は大願主となり、社殿の造営をしている。

その後、永正10(1513)年、奥山郷領主奥山良茂は延べ千人を使って社殿を造営した。

江戸時代に入り、幕府は社領3貫500文、翌7年代官片切家正は同社神官山住助太夫に7貫500文を安堵した。のち社領は幕府から石高で37石5斗を与えられた。

元亀3(1572)年、徳川家康が三方ケ原の戦いの折、武運長久を祈願、戦いに利なくも山住神社の加護により一命の難を逃れたと、そのお礼参りのため、天正元(1573)年正月17日、再び参詣のために登山されたという記録もあるという。

その後に奉納された二振りの刀剣は、宝物として所蔵されている。

境内には、推定樹齢1200余年という杉の巨木が二本あり、県指定の天然記念物となっている。

神社の裏山の杉の大木も樹齢数百年といわれ、鬱蒼とした境内は神宿る聖域の荘厳さをひしひしと感じさせる。

新緑の頃から夏にかけては仏法僧(ぶっぽうそう)の声が夜の闇のしじまに谺するという。

昭和45(1970)年、この山住山の峰越しに林道が開通し、陸の孤島といわれた門桁の集落を経て、春野町に通じるようになった。工事費二千四百万円を投じた難工事であった。

そして、この林道は昭和49年に春野水窪線として県道となった。

沿線の至るところの景観は素晴らしく、春の新緑、秋の紅葉の清流に映える光景は目を見張るものだ・・・・。

      

青々と 山のこずえのまだ昏れず

           遠きこだまは 岩たたくらし

 

林道開設記念碑に刻まれた、折口信夫の歌である。

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