「水窪」に伝わる「西浦田楽」
静岡県の最北端に位置する水窪町は、愛知県と長野県の県境の町で、昔から遠州、東三河、南信濃の地域は民族芸能の宝庫といわれ、水窪町の「西浦田楽」、東三河の「花祭り」、南信濃地域の「湯立神楽」は、それぞれ国指定重要無形民俗文化財に指定されています。
「西浦田楽」は、民族学者折口信夫肝いりで昭和5年、東京日本青年館において開催された「第5回郷土舞踊と民謡の会」で発表され、それを契機に「NHkふるさと歌まつり」などに矢継ぎ早に取り上げられ、民俗芸能史上において卓越した価値が確立されました。
そして、昭和27年2月28日、東京文化財保護委員会から「無形文化財」に選定され、昭和42年10月11日、県教育委員会から「無形文化財」に指定され、昭和51年5月4日、文化庁より「国指定重要民俗文化財」に指定され、昭和53年4月11日には吉川英治文化賞を受賞しました。
「西浦田楽」の起源は養老3(719)年にまでさかのぼります。その年、行基菩薩がこの地を訪れて聖観世音菩薩像(身長4尺余り)と数個の仮面を作って奉納したことに始まるといわれています。
地元では「観音様の祭り」といわれ、「西浦田楽」と呼ぶのは文化財名なのですが、最近では「西浦田楽」と呼ばれるのが一般的になりました。
「西浦田楽」は、旧正月の18日、月の出から日の出にかけて所能にある西浦観音堂で行われます。観音堂の境内の奥に折口信夫の(海やまのあひだ)に収められている奥領家を歌った歌碑があります。
燈ともさぬ村を行きたり
山かげの道のあかりは
月あるらしも
祭りは「木の根まつり」とも呼ばれ、身も凍る暗夜の下、夜を徹して執り行われます。
神事は観音様の別当高木家の祭主を中心に23人の能衆が上下の2つに分かれて奉仕します。能衆は、この土地を開いた人、その草分けと言われる家柄の人たちです。
能の曲目は、「御開帳奥院の舞」8番、「地能」33番、「はね能」12番で構成されています。
「西浦田楽」は、まさに神仏と自然と人間の壮大な葛藤を現代に伝える一大ページェントです。
田楽のすべての舞が終わると、最後にしずめといわれる儀式があり、観音堂の庭に集まってきたすべての神々を送って、夜を徹した祭りは終わります。
おとぼう渕のはなし
水窪町草木の桐山というところに、「おとぼう渕」と呼ばれる渕がある。草木という集落は、水窪の町から遠く離れ、遠州の中の最北端の村である。
草木に行くのには白倉川の川沿いに、危険な桟橋を渡ったり、苔むした勾配の急な坂道を登ったりしなければならないほどの偏狭の地であった。
田んぼのない山間の、この村に住む人々は、もろこしなどを主食にして暮らしていた。
もろこしを粉にして団子に丸めて、囲炉裏の灰の中に埋めて焼く・・・。焼けると団子に付いた灰を、手の平で落として食べる。そんな暮らしをしていた。
そして、もろこし団子を客にすすめるときには、
「もおちっと、ころばせぬ。」
といって、すすめたという。
もう少し、手の平で転がして、灰を落としてから食べて下さいねという意味だったのだろう。
むかし、むかしのこと、この渕の近くに善兵衛という金持ちが住んでいた。
里の人たちはこの家が金持ちなのは、おとぼう渕の主と仲が良いからだと噂をしていた。
この家の主人は、人寄せがあるときには、渕の主に頼んでたくさんのお膳やお椀を借りたり、お金に困ったときにはお金を貸してもらったりしていた。
そんな具合だから、渕の主も時々、人間の姿になってこの家を訪ねて来ていた。
しかし、不思議なことに渕の主は、「蓼汁(たてじる)だけは嫌いだ。どうしても好きになれない。」と繰返し繰返しいっていた。
ところがある日、家の者がうっかりしてお膳に蓼をつけて出してしまった。渕の主は一口食べると、「こりゃしまった。」と叫ぶと、渕に向かって走って行き、渕に転がり落ちてしまった。
それまで人間の姿をしていた渕の主は、赤い腹をした大きな魚の姿に変わって、川を流されながら、「おとぼう、おとぼう」と叫びながら流されて行った。
善兵衛はその様子を見ると、「私の手落ちから、悪いことをしてしまったな。」と後悔したが、どうすることも出来なかった。
それからは渕の主もこの家を訪れなくなり、金持ちの家も家運が傾いて、ほどなく没落してしまったという。
そんなことがあってから不思議なことに、おとぼう渕には沢山の蛇が棲むようになり、村人たちは気味悪がって、近寄らなくなったが、どうしたわけかこの蛇は蓼が嫌いで、蓼を見せるとみんな散ってしまったという。